日本の医学と医療の歴史 平安時代

おはようございます。自律サポートカウンセラーの甲斐です。

さて、今日は平安時代をみていきましょう。

このころになると鍼灸のことも出てきますね。ただ、中国から入ってきた鍼灸は、なかなか理解できなかったようで、日本人らしく、分かりやすくしているところなど、思わず微笑んでしまいました。こういうことがあったのだと思うと、親近感がわいてきますね。(笑)一方で、疫病が流行って多くの犠牲者が出たようですが、まだまだ、相変わらず加持・祈祷という治療法しか考えられなかったのでしょうね。

 

平安時代

 平安時代には、身分の上下にかかわらず人々は病気の原因は怨霊の仕わざと信じられていました。当時、急病人がでるとそれに対応するのは怨霊、物怪(もののけ)を退治する加持祈祷が最も重要な医療行為でした。当時の人々にとって病気の治療には、薬の内服より験者による加持祈祷の方がはるかに大切であったことがうかがえます。

 一方、都で身分の高い人たちは、病気になると呪術や祭祀をおこなう陰陽師(おんみょうじ)に疫神を退治させるようになりました。陰陽師は、養老律令で中務省に属する官職の1つで、本来は陰陽五行に基づいた陰陽道により占術を専門とする職でしたが、怨霊や疫神の退治をもおこなう職業となってきたのです。  陰陽師として一躍有名になったのが、安倍晴明です。安倍晴明は921年、摂津国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)に生まれたとされ、陰陽師賀茂忠行に陰陽道を学び官職に就きました。50歳ごろから頭角をあらわし、最終的には中務省の陰陽寮長官である陰陽頭よりも上の官位であったといわれます。

 典薬寮は奈良時代に比べて相当大きな規模となり、地方から送られてくる薬物の管理、薬園や乳牛の牧場の管理、医学教育および医師の任免、朝廷関係者や畿内住民の診療まで、すべての中央医療関係を管轄していました。この時代に医学を学んでいた医生の正確な数字は明らかではありませんが、数十人の規模であったと考えられています。定められた教育課程が修了するとかなり厳格な資格試験が実施されましたが、合格しない場合も多く、これらの者には当然のこととして医業をおこなうことを禁止していました。しかし次第に医師不足が問題となってきたため、医師の子孫はたとえその本人が医学教育を受けていなくても無検定で医師になれるという無謀ともいえる制度にかわっていったようです。

 施薬院については、奈良時代に光明皇后が興福寺に皇后宮職として設置したものが最初でした。平安時代になるとこれが皇后宮職から独立した存在となり、その規模を拡大させていき、もともと悲田院の管轄であった貧困の住民や孤児の救済までを取り仕切っていました。京の町で飢病者がいると米や塩をふるまうなどの事業もおこなっていたようです。しかし京では一方でかなり非道なことも行われていたようで、奴婢は死が近づくと雇い主は道端に捨てられるなどのことがおこなわれ、道端や河原には白骨がごろごろころがっていたといいます。それはともかくとして、時代が下って荘園が栄え地方に朝廷の力が及ばなくなると施薬院の勢力も衰えてきました。また地方で施薬という大義名分のもと特権を得て横暴な活動が目立つようになったという記録も残されています。

「医心方」

 984年、典薬寮医・鍼博士であった丹波康瀬が現存する最古の医書「医心方」を円融上皇に献上した。永く宮中に秘蔵されていたが、鎌倉時代に宮廷医家が盛んに書き写しかなり普及した。

「医心方」の中の鍼灸

中国の鍼灸の古典にとらわれず、実用に即して、ツボの記述をしている。ツボを経脈で分類せず、身体の部位に分けたようだ。それは、「黄帝明堂経や、華陀鍼灸経は、文章が繁雑で、奥が深く、内容が複雑である。先賢は既になく、後学のものは理解できず、困惑するばかりである。本を開いて文章を理解しようとしているうちに急患がきても治療できない。もぐさをつくって灸をすえようとしても、ツボがどこなのか迷う。そこで、ツボを頭、面、手足、胸、脇、腹、背の各部分に分けた。」十四経路や五行陰陽などの哲学的論議は、治療に不要であると判断してふみいれなかった。ただし、鍼灸の禁忌や治療の吉凶日の選定は真剣に論じている。以上で分かることは、簡略化、実用化という「日本化」の特徴がみられる。

疫病の流行と怨霊思想

 「日本後記」などの記録によれば、808、861、928、942、993年に疫病が相次いだ。

861年における赤痢の流行は病名が記録に残っています。赤痢にはアメーバ赤痢という寄生虫が原因で発症するものと、赤痢菌が原因の細菌性赤痢がありますが、多くは細菌性赤痢だったのでしょう。食物や水から消化管に感染する食中毒で、高熱、激しい腹痛、下痢、血便が続きます。京やその周辺の村で大流行し、多くの子どもが亡くなったといいます。

 冬季になると、高熱と咳が続く咳逆(しはぶき)という一種の流行性感冒がたびたび流行しました。おびただしい数の死者があり、1011年には時の一条天皇が32歳でこの咳逆「しはぶき」により亡くなったことが平安後期の歴史書「大鏡」に記されています。

 その他のウイルス性疾患としては麻疹の流行もたびたび発生しました。なお麻疹を「はしか」と称するようになったのは鎌倉時代になってからのことです。平安時代で記録に残る大流行は歴史書「扶桑略記」などによると1077年で、白河天皇やその皇后が麻疹に罹患し、多くの皇族や公家が死亡したそうです。

 これらの病気は現在ではあらかたの正体が判りますが、当時はこれに対して例えば高熱や下痢による脱水に対して十分な水分を与えるなどの医療法は考えられていなかったようです。薬物療法についても抗菌薬などはもちろん存在しませんが、漢方薬など当時からあった薬物が使用された記録はありません。やはり加持・祈祷という治療法しか考えられなかったのでしょう。

祇園会(祇園神社御霊会)が始まったのも平安時代です。天神信仰、寒神信仰なども盛んになりました。
 

 

 
DDクリニックでのカウンセリングは、ただいま 8月分の申込受付中です。
お問い合わせは、予約用電話:03-6240-1316まで

お問い合わせください。

御殿場、訪問カウンセリングはご予約を承っております。

こんなお悩みの方もご相談ください。
カウンセリングさせて頂いております。

 

こんなお悩みの方もご相談ください。
カウンセリングさせて頂いております。

Heart Concierge ひまわり
静岡県御殿場市萩原767-14
お問合:090‐9924‐7773
e-mail:info@hi-mawari.com
ご予約・お問合せはこちらをクリック!
営業時間:9:00~18:00カウンセリングは全て予約となります。